もちねこのペアダンスメモ

もちねこのペアダンスメモ

異国のダンスを学ぶ

井上 淳生(いのうえ あつき) 研究のまとめ 内容編②

 

カップル空間の共同性」から

カップル空間の共同性 : 日本の社交ダンス界における身体接触と競技化
Community of the Couple : The Close Body Contact and Self-defining as Sports on Ballroom Dance Industry in Japan
井上 淳生
北海道民族学 (8), 1-15, 2012
http://douminzoku.web.fc2.com/kaishi_pdf/08/08-01inoue.pdf

■1920 年代からは(社交ダンスは)庶民の間にも普及するようになったのだが、男女が対になるという「形式」を持つ社交ダンスは日本に紹介された当初から、「不道徳」という名の下に警察による取締りの対象とされてきた(永井 2002)。

社会的な交流のために男女が身体を密着させるという行為は、それまでの日本にはなじみの薄い習慣であり、「不道徳」「売買春の温床」として当初から日本社会の周辺に位置付けられていた。

■これに対し、1920 年代から社交ダンス教師や愛好家による対抗運動が行われるようになる。その戦略として採用されたひとつの理論的根拠が「スポーツ/競技」 という自己規定であった(永井 1991)。つまり、社交ダンスとは決して「いかがわしいもの」ではなく健全な「スポーツ/競技」である、ということを主張することで社会的な地位の向上が目指されたのである。

 

■社交ダンス界(教室、ホール)に集う人々は、みな一様に「社交ダンス用の」衣装に身を包み、「社交ダンス用の」ふるまいで他者に接する。そして、カップルになった相手と身体を接触させる。つまり、社交ダンスの世界とは、その場にふさわしい服装をし、その場にふさわしい会話の内容を選び、状況にふさわしいステップを仕掛け、対応する、といった、ある特定の「形式」に沿いながら、その場の状況に自身を適合させることが美徳とされた世界である。

その「形式」の中には「外部の社会関係を持ち込まない」という基準も含まれている。ここで言う「外部の社会関係」とは、職業や収入、家族構成や出自などといった各人の「生活的背景」のことであり、この「生活的背景」を不問にすることが社交ダンスの世界では求められる。ここに参集する人々は他者の「生活的背景」を詮索することを厳に慎むことが求められ、逆に自らの「生活的背景」を過度に公にすることも自制することが求められる。ゆえに、話題に選ばれやすいのは、踊りの技術や所作に対する称賛であり、取り組む姿勢の熱心さや髪型や衣装などの外見に対する賛美といった、社交ダンスという営みそのものに由来する話題である。

 

「夢を見せる」「別人になったつもりで」といった言葉に表れているように、ここから見出せるのは、非日常を演出することが「教師」としての職務であるという自覚である。このようにして、「教師」は、自らの提供できるサービスが非日常的なものであるということを「売り」にして、様々な側面に非日常の薫りを演出しようとする。つまり、「生徒/お客」を日常の社会的関係から分離させることを「教師」が積極的に促進しているのである。

 

■しかし、「異性との身体接触」という「形式」に沿うがゆえに「生活的背景」を表出させてしまうことも生じ、「無縁」の者同士の集団という規定は社交ダンス界には完全に適用することができないのである。

 

■A さんは格闘技や看護士といった、この空間の「外」にある「生活的背景」を参照項にして、社交ダンス界における「異性との身体接触」という新しい経験を、なんとか自身の感覚に近いところにたぐり寄せようとしている。彼女にとって社交ダンスにおける異性との身体の接触は、「おっかない」ものであると同時に、格闘技と同じ「スポーツ」の一環である。社交ダンスを「スポーツ」と見なすことによって、「異性との身体接触」という行為が持つある種の「不道徳感」を希釈することができるのであろう。換言すると、異性と身体を接触することに対する逡巡を緩和し、自身の身体を相手の身体に接触させる方向に向かわしめるモーメントが「競技」という論理なのである。

 

■一方、「教師」にとって「非日常」を演出することには限界がある。例え、清潔な印象を与えるように髭を剃って髪をセットし、歯を磨き、しわのないシャツとスラックスに身を包み、ネクタイを締めて姿勢を起こすといった、考えうる全ての外見的要素を「非日常」向けに整えたとしても、演出しきれない部分が出てきてしまうのである。なぜなら、身体を接触させることにより、筋肉の付き具合や体温、息づかいやにおいなど、演出では隠しきれない情報を交換し合う関係に置かれるからである。つまり、異性と身体を接触させるという「非日常」を提供しようとしても、まさに互いに近付くがゆえに、互いの「日常」(身体)に関する情報を交換し合ってしまうということが起こるのである。

 

■たとえ、社交ダンスという非日常の営みであるとは言え、互いに夫婦ではない中高年の男女が身体を接触させるという行為は、現代日本の社会通念では決して「良い」ものとはされていない。しかし、そこに「競技会」に出場するため、という条件が追加された場合、事情が違ってくる。確かに、「競技」目的でさえあれば、夫が自分以外の別の女性と身体を接触することに諸手を挙げて賛成するというわけでは、おそらくないだろう。しかし、内心については推量するしかないが、結果的には「まあ、いいんじゃないの。」と言って、夫の「カップル化」を承認しているという点は明らかである。この「承認」を「競技」という要素が後押ししたことは十分考えられる。

 

■競技会に出て好成績を収めるために求められる要素は、大きく分けて、スピード、シルエット、音楽性である。特に美しいシルエットを維持しつつ、見る者にスピード感をアピールするためには、互いの「ボディ」を密着させる必要がある。互いの身体の間の噛み合わせが緩いと、ターンや回転をする時に2 人が「分解」してしまうからである。競技会に出場する選手に対するレッスンの焦点もここにある。つまり、動く中で「ボディ」が離れないように指導することが、レッスン内容の中心を占めるのである。そのため、「カップル」になった2 人には、「教師」から「もっとくっつくように」と要求され、その要求を内面化した2 人も互いに「もっとくっつくように」しようとするのである。

 

■現在の日本で一般的に「社交ダンス」と呼ばれているものの中身は、大きく次の2 つに区分されている。それは「競技」と「社交」である。この区分は日本に限らず世界的に見られる傾向である(Mcmains 2006、Myers 1984)。例えばMyers(1984)によると、アメリカでは「社交のための踊り」は「競技のための踊り」の劣化版であるという社会的認識が存在すると指摘されている。また、英語圏では「社交のための踊り」はsocial ballroom dancing、「競技のための踊り」はcompetitive ballroom dancing と区別して呼ばれる傾向にある(Mcmains 2006)。現在では、「競技のための踊り」は「ダンススポーツDance Sport」という呼称で統一される傾向にある。

 

■少なくとも日本において社交ダンスを「競技」の文脈で語る時、男女の身体接触に伴う「不道徳」感は薄められ、密着した2 人の男女は「○○(男性の姓が入る場合が多い)カップル」という名の下に競技会に挑む「戦友」という関係に置き換えられる。

 

■一方で、「社交」の文脈で社交ダンスが語られる時、そこには互いの関係をどのように形容して良いのかが分からない「収まりの悪さ」がつきまとう。なぜなら、「競技」という目的意識に比べ、「社交」という目的はいかにも曖昧であり、「社交」という言葉の広範囲にわたる意味の中に、「競技」では一掃されていた「不道徳」の要素が息づいているからである。

 

■日本において、社交ダンスを「競技」として規定することを目指す団体に「日本ダンススポーツ連盟Japan Dance Sport Federation」がある。この組織の北海道支局で理事を務める女性は「(私達のやっていることを)社交ダンスって呼ばないで下さい。ダンススポーツって呼んで下さい。」(80 代女性、2010 年10 月)と、「社交ダンス」という言葉の持つ歴史的な「不道徳」感からの決別を筆者に対して明確に表明していた。「社交ダンス」も「ダンススポーツ」も形態のうえでは、一対の男女(カップル)で構成されるという点で同じである。しかし、そこに「競技」の要素を持ち込み、名称まで変更することで「社交ダンス」が歴史的に負わされてきた周辺性を払拭し、社会における積極的な地位を獲得しようという意図がここには読み取ることができる。

 

「ダンスの人類学の概観と展望」から

 ■ダンスの人類学の概観と展望
Making a Survey of Dance Anthropology
井上 淳生
北海道民族学 (9), 57-67, 2013
http://douminzoku.web.fc2.com/kaishi_pdf/09/09-05inoue.pdf

■その事情を踏まえたうえで、現在の「舞踊人類学」の問題点を挙げるのであれば、次の2点が指摘できる。1点目は、概念としての「舞踊」と「文化」の関係が不明瞭なため、依然として「一民族・一文化・一ダンス」という枠組みのもとに各地のダンスを収集する試みが続けられている点である(cf.遠藤2001、宮尾2007)。たとえば、宮尾(2007)では、エドワード・ホールの「隠れた次元」を下地にしながら、アジア各国に見られる土着のダンスが対象社会の「精神文化」を表している、という立場をとっている。つまり、ハワイのフラダンス、アメリカインディアンのサンダンス、アイヌの熊踊、というような「地域・民族」と「特定のダンス」の組合せを前提に、特定の地域・民族に属する特定の踊りがその地域・民族の「精神文化」を反映しているという視点に立っている。このような立場では、地域・民族に係留された文化としてのダンスという枠組みの制約を受け、現在の社会で進行する外部との交流による、加工や再生産といった動的な側面を記述することができないのである。

 

外来文化としてのダンスが、地域の文脈との関係によりいかに作り替えられ、そして新たにつくり出されたダンスが地域の担い手にどのような影響を与えているのかが考察されている。

たとえば、生地陽は、日本におけるフラの「消費」を考察している。生地によると、外来のダンスとして、フラは戦後の日本に起きたハワイアン音楽の流行を追い風に踊られてきたが、1980年代に入ると地域のカルチャー教室などでも見られるようになり、特に中高年の女性を中心に人気を集めるようになった。この時期からフラは、健康に良いダンスとして中高年女性の間で広がるようになる。1990年代に入ると担い手には若い女性も見られるようになる(生地1998:54、67)。生地は日本におけるフラの受容を「異文化の消費」ととらえ(同上:64)、日本でフラを踊ることと観光(ハワイへの旅行)との連続性、さらにはディーン・マッカネルの言葉を引きながら、フラを踊ることが「失われたオーセンティシティ」を他者の中に見出していることにつながっていると指摘する。

 

■現在のダンスの人類学は多様なテーマと結びついている。とりあげられるテーマは、ポストコロニアリズムナショナリズムエスニシティ、コミュニケーション、グローバリゼーション、ジェンダー、身体など多岐にわたる(Reed 1998)。たとえば、ポストコロニアリズムの文脈におけるダンス研究では、ダンスは支配者にとっては秩序を乱す危険なものとしてとらえられていたと記されている(cf. Kaspin 1993)。

 

■植民地政府にとって、土着のダンスは植民地の人々が連帯する手段であり、統治体制をくつがえす可能性をたたえた危険なものであった。したがってそれらは統治者による規制や禁止の対象となっていた。同様のことは明治期の日本においても確認できる。明治初期の西洋化の裏側で、それまでの日本に存在した盆踊りが「賎しき風俗」として全国的に禁止されるのである。植民地主義の文脈とは事情が異なるが、既存のダンスを危険なものと見なす傾向は同様である。

 

■しかし、日本の文脈においてさらに重要なのは、盆踊り禁止の裏側で「進んだもの」として持ち込まれた西洋のダンスさえ、後に「不道徳」という理由から取締の対象になるのである。つまり、統治者が土着のダンスを危険視する傾向は歴史的にも世界的に見られることであったのだが、「進んだもの」として外から持ち込まれたダンスさえ、時代を経るにつれて取締の対象とされるという点である(永井2002)。この点は、ダンスという対象が統治者や社会的規範をいかに刺激するかを物語るものである。

 

■1. 日本語における「舞踊」とは、明治後期から大正時代にかけて定着した、坪内逍遥による造語である。この語をめぐっては、つくられた当時から、「舞踊」=東洋の踊り/「舞踏」=西洋の踊り、という区分や、「舞踊」=広義の踊り/「舞踏」=狭義の踊り、という互いに別種の概念規定が混在しており(郡司1991:18)、論者による指示内容の違いを明確にするためにも論の冒頭で概念規定をしておく必要がある。

 「なぜ、ステップを知らないと踊れないのか? ―日本の社交ダンスにみる『ダンス規制』と身体の規格化̶」から

■(研究会報告)「なぜ、ステップを知らないと踊れないのか? ―日本の社交ダンスにみる『ダンス規制』と身体の規格化̶」
北海道歴史文化研究会 2014 年4月26日(土)
http://ainoue.net/daily_words_in_danthropology/news14.pdf

 

■日本の社交ダンスの歴史

1920年代~

身体の接触を伴う男女の交流が公の場では隠されるべきものであると定められる。

ダンスホール→「いかがわしい」と規制の対象

VS

ダンス教師・有識者

「健全なスポーツ」としての社交ダンスの確率に向かう

1998年の風営法の改正

ダンス教室とダンスホールとの明確な区別が生まれる。

 

■今日のダンス・スクールの現場でのダンスの教授の実践の理解には,このような歴史的背景をふまえる必要がある.

 

今日のダンス・スクールにおけるダンスの教授は,

① ペアの固定化

② 音楽の種目・カウント化,

③ ステップ

に集約されると分析する.

 

■第一に、ダンス・スクールでは、リーダー(教師) とフォロワー(生徒)の関係が固定化される。一般的にいって、生徒はペアを組んだ人間や教師とは踊れるが、それ以外の人たちとは踊ることができない。

教授者であるリーダーは学習者のフォロワーに対して「勝手に動くな」、「変な癖がつくから他の人間と踊るな」といった発言や指導を行うなど、リーダー/フォロワー関係を固定化する傾向にある。こうした関係の固定化の背景には、ほとんどのダンス・スクールの指導者が参加する競技会がある。

 

■競技会で勝利するためには固定化したペアが必須であり、ダンス・スクールの教師は競技会における基準を程度の差はあれ内面化している。

社交ダンスのスポーツ(競技) としての側面の強調により、広義の「社交」としてのダンスという側面は背景へと退いてしまう。

 

■第二に、スクールでのダンスの音楽は、ワルツ・タンゴなどの種目ごとに「カウント」と呼ばれる数字化された号令に変換される。

 

■カウントは、音楽をダンスのステップへと媒介する技術であり、社交ダンスの指導における大きな影響力をもった要素である. ダンスの初学者は、音楽に合わせるのではなく、カウントに合わせることを学んでいく。こうした音楽のカウント化は、 社交ダンスの音源として生演奏の機会が減り, 揺らぎのない機械の音源が一般的なったことでさらに強化されている。生演奏の減少により、ダンサーが演奏のたびに異なる音楽の微細な揺れにあわせて身体を調節する契機が失われ、固定されたカウントに合わせる支配的傾向がいっそう強まっていく。

 

■スクールではダンスホールとは異なり、ステップの重視が顕著である。初学者は、まず足の運びのパターン、身体の向き、角度、回転量など、ステップにまつわる一連の技術を学習する. 初歩の段階では、ペアの相手の動きを感じることや、自分の動きをペアの相手に伝えることなど、ペアで踊る(動く) 上で必須となる技術は教えられない. むしろスクールでは、たとえペアで訓練しているときでも、自分一人の身体の動かし方を体得することが重視されている。

 

■そこでは社交ダンスがもつ、他人と呼吸を合わせ、当意即妙に他者との距離を肉体レベルで設定しなおしながら進めるという要素が失われ、学習者は自分の意識を自分の身体の動きにのみ向けるようになる。

 

■以上の要素が日本において「ステップを知らないと踊れない」という現象を生み出している。

 

■カウントおよびステップは、音楽と身体的所作の媒介という感覚レベルの技術を、だれもが習得可能なものにするために生み出された重要な技術である。しかしそれらは, 音楽とペアの相手の動きの両方に合わせて踊るという社交ダンスの要素をあまりに限定的なものにしてしまっている。

 

■あらゆるダンスがそうであるように、社交ダンスもまた「音楽への参加」という実践から歴史的に発展してきた一つの形態であるとすれば、社交ダンスは「音楽への参加」という原初のダンス性を忘れ、抑圧することで成立しているという矛盾した存在ということになる。

 

■(井上氏は)社交ダンスの世界に「原初のダンス性」を取り戻すべく、 様々なダンス・イベントの開催に取り組んでいる。氏はそのイベントで、 一般的なスクールの教授法とは大きく異なり、「カウントではなく曲に合わせて」、「ステップを最小限に」して踊ることを教えることで、 音楽とパートナーに身体の動きを合わせる社交ダンスの異なる形を模索している。

 

文化人類学からみた社交ダンス(前篇)

2014.5 JBDFの機関誌

http://www.jbdf.or.jp/dancemylife/pdf/77.pdf

 

 

「現時点で言えることは、ダンスとは「揺れ」と「かかわり合い」であるという点です。そして、社交ダンスもその側面を多分に引き継いでいるということです」=「原初のダンス性」

 

文化人類学からみた社交ダンス(後編)

2014.12 JBDFの機関誌

http://www.jbdf.or.jp/dancemylife/pdf/78.pdf

 

「途中で、ルンバのクローズドベーシックムーブメントのような動きを紹介したところ、「難しすぎる」と言われたことです。(中略)

途中から私は、用意した振付を使わずに私自身もその場の音楽や雰囲気に合わせて「ただ揺れるだけ」に近いような動きをすることにしました。結果としてはそちらの方が断然良かったように思うのですが、私が最も感じていたのは、「仕事をしている感のなさ」でした。」

「…このとき私は「ダンスの場をつくる人として」呼んでもらっていたということです。

つまり、私に求められていたのは、社交ダンス界に蓄積された技術や作法、世界観を参加者に味わってもらうということよりも、「音楽に合わせて体を揺らす」「隣の人と手をつなぐ」「近くにいる人と笑い合う」といった、もっと根源的な意味でのダンスの場をつくるということだったということです。」

 

「社交ダンスもダンスのひとつであるということに思いを馳せると、心に響く音楽に触れた時に、体を揺らしたい、近くにいる人とその揺れを共有したいという気持ちがあって初めてダンスが始まるのだということに気付かされます。それを基礎にして社交ダンスもまた始まることを。」

 

「ダンス空間における「正しい」踊りかたと身体」から

■(社交ダンスの業界団体において)採用された戦略が「健全なスポーツ」としての自己規定であり、「正しい社交ダンスをする者」と「そうではない者」、という区分を社交ダンス内部に持ち込んだことであった。

 

■しかし、高度な技術を背景としたスポーツに代表される「正しい」社交ダンスが強調される一方で、決して高度ではない技術に基づき、「勝つため」でも「見せるため」でもなく社交ダンスを踊る人びとがいるのもまた事実である。

 

■歴史的に構築された「正しい/正しくない」という区分と、現実に社交ダンスに取り組む人びとの実践との関係について

 

現在の社交ダンス界を構成する原理とも呼びうる特徴は、

①細密に規定された技術体系、

②「優美なふるまい」に関する緩やかな規約、

③産業としての成立を支える課金体系

の3 点である。

つまり、社交ダンスに参加するうえで要求される「正しい」身体の使い方やふるまい方、お金の使い方が、一種の規範として現在の社交ダンスへの参加者に共有されているのである。

 

■技術の高度化を背景に、社交ダンス教室へ参加する高齢の愛好家にとって、社交ダンスはもはや人の目を気にせず踊るような「気楽な」ものではなくなっている。

常に、他者からの視線にさらされ、「見せるため」に踊ることが前提となっている。むしろ、人前に自らをさらすことによる緊張感が、教師、愛好家(生徒)双方によって肯定的に評価されている。「見せる」ことが目的となっているために、教室では高度に体系化された技術が動員されるのである。