もちねこのペアダンスメモ

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異国のダンスを学ぶ

アーサー・マレーはどんな人でしたか?ダンス界のレジェンドの物語

 

arthurmurraystudios.com

 

アーサー・マレーはどんな人でしたか?

 

アーサー・マレーの人生は、典型的なアメリカンドリームの一つです。1895年、オーストリアハンガリーの小さな町で生まれ、ニューヨーク市で育ったアーサーは、つつましい人生の始まりから、ダンスの王国を築きました。

アーサーが元々のシャイな性格を克服し、社交の手段として認識していたものは、謙虚で働き者なこの移民を、ビジネス界の大物かつダンス界の伝説に変えてしまいました。そのプロセスで、アーサー・マレーは無数の人々にダンスで生活を改善するよう促してきました。

 

若い頃

 

モーゼス・タイクマンとして生まれたアーサーは、1897年に、母親サラと一緒にアメリカへ渡り、そこで彼の父親と一緒にローワー・イーストサイドで暮らし始めました。

自分のひょろっとした体格と背の高さを自覚していたアーサーは、人気がある友人にサポートしてもらい、結婚式やその他の社交行事でできるダンスの初歩を教えてもらって、ダンスを練習して動きを洗練させました。ダンスを通じて、アーサーは喜びと自信に加え、そして彼の残りの一生を通じて多くの人と分かち合う情熱を発見したのです。

 

17歳の時に、アーサーは、当時、人気だったヴァーノンとアイリーン・カッスル夫妻に師事し、夜には彼もダンスクラスを教えていました。 まだ高校生の時に、アーサーは、グランドセントラルパレスでの最初のダンスコンテストで優勝しました。グランドセントラルパレスはボストンにアーサーが移る前に彼がレッスンしていた場所でもあります。

ボストンでは、彼はデヴェロー邸の理学療法クリニックで患者たちに社交ダンスを教え、ダンスを教えることで、さまざまな病気から癒やされ立ち直れるよう、彼らにダンスへの愛を抱かせました。

 

星が輝き始める

アーサーはジョージア工科大学で経営学を学んでいましたが、アトランタジョージアンテラスホテルで社交ダンスを教えてもいました。

アーサーはまた、1925年に世界初の「ラジオダンス」を開催しました。キャピタル・シティ・クラブの最上階に、ジョージア工科大学のキャンパス内で演奏中のバンドの生中継を聞きに150人(主に学生)が集まってきて踊りました。ダンスはセンセーションを巻き起こし、人々はアーサーに注目しました。

 

アーサーは、ダンスへの愛情を広める素晴らしい時間を過ごしていましたが、彼は自分のダンスの知識をできるだけ多くの人とシェアしたいと思いました。ダンスを教えてお金を稼ぐことについて、友人からのさりげないコメントに触発され、アーサーは人々に郵便でキネトスコープを送って、人々にダンスのステップを教えるシステムを作り上げました。それは、穴あきフィルムの一片が連続したイメージを高速シャッターで光源の上に映し出すことによって、動いているような錯覚を生み出すというものでした。これで人々は描かれた踊りを模倣することができました。

アーサーはまた、連続した足跡の形で作った足型図(フットプリント)を描いた絵を配布して、人々はそれを床に置いてダンスのステップを学習しました。数年のうちに50万のダンスレッスンが売れました。

アーサーはまた、ダンスのレッスンをフランチャイズ化し、スタットラーホテルのチェーンの為に、未来のダンスインストラクターを教え始めました。

 

1925年4月24日、アーサーはキャサリン・コーンフェルダーと結婚し、このダンスカップルはすぐに双子の娘ジェーンとフィリスを授かりました。 彼らカップルは、自分たちのダンスの指導スタイルに関して受け取ったポジティブなフィードバックに勇気づけられて、最初のダンススタジオを開き、一般の人々を教え始めました。

アーサー・マレーのスローガンは「あなたが歩くことができれば、私たちはあなたに踊り方を教えることができます」でした。

 

みんな踊りたい

特に1938年と1939年、アーサーがほとんど知られていないダンス「ランベスウォーク The Lambeth Walk」と「ビッグアップル The Big Appleを選んで、ダンスのトレンドに変えたとき、アーサーのビジネスは飛躍しました。

 

ランベスウォーク


The Lambeth Walk Demonstration at StudioJeff

(1938年にアーサーマレーによって書かれたものの実際のデモンストレーション)

 

ビッグアップル


Whitey's Lindy Hoppers 1939 (The Big Apple)

 

大流行のダンスは全国のホテルで教えられ、アーサー・マレーは一躍有名になりました。 また、1938年に、最初のアーサー・マレーのフランチャイズスタジオがミネソタ州ミネアポリスにオープンし、すぐにフランチャイズ・スタジオが全国に広がり始め、未経験でも10レッスンで踊れると約束しました。

 

第二次世界大戦後、アーサー・マレー社の事業は、当時流行していたラテン・ダンスのレッスンを提供することでさらに成長しました。彼はダンスを教えるためにキューバに行き、1950年代はずっとその地でダンスのテレビ放送をしていました。

ダンス流行の熱に浮かされ、ダンスレッスンに興味を持ったのは10代や主婦だけではありませんでした。アーサー・マレーには、ウィンザー公爵、エレノア・ルーズベルト、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア、バーバラ・ハットン、ジャック・デンプシー、エリザベス・アーデンなど、セレブリティと呼ばれるクライアントが何人もいました。

 

アーサー・マレーは1964年に引退しましたが、ダンススタジオの拡大と1970年代まで人気ダンス フィーバーディスコ ショーに出演するなど文化人として存在感を発揮していました。

1991年3月3日、アーサーはハワイのホノルルにて、95歳で亡くなりました。

2007年、アーサー・マレーとキャサリン・マレー夫妻はニューヨークのサラトガスプリングスにある国立ダンス博物館のコーネリアスヴァンダービルトホイットニーに殿堂入りしました。

www.dancemuseum.org

 

現在、世界中に何百ものアーサー・マレー・ダンス・スタジオがあり、それぞれのスタジオは、専門のインストラクターにより、ダンスを通じて生徒に自信と喜びを彼らの人生にもたらすことができるように運営されています。

アーサー・マレーはそのささやかな始まりから、ダンス史上最も人気のあるダンスインストラクターになりました。そして、彼の遺産は、ダンスをして生きる全てのインストラクターと学生たちにアーサー・マレーのやり方として引き継がれています。

 

より細かい事柄については、日本語版ウィキペディアをお読みください。

・生涯

・スタジオの始まり

・スタジオの新しい時代

・著作

・音楽

・スタジオに関わる人々

・ダンス指導

・スタジオで扱うダンス種目

・日本におけるアーサー・マレーのフランチャイズスタジオ

・日本におけるアーサー・マレーとアメリカンスタイルの流入

ja.wikipedia.org

 

妻のキャサリン・マレーについてはこちら。

ja.wikipedia.org

アーサー・マレー 南カリフォルニア州のスタジオの記事より。

(旗艦スタジオのビバリーヒルズスタジオを含む9つのスタジオがある)

(原著者に許諾を取って翻訳しています)