もちねこのペアダンスメモ

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異国のダンスを学ぶ

イギリスの社交ダンススタイルの進化

 

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はじめに

 

イギリスでは、パートナーダンスはインフォーマルなものからフォーマルなものまで、様々なスタイルで行われていますが、最も目に見えて推進されているのは、競技用ボールルーム(DanceSport)のテクニックとスタイルをベースにした、イギリス人が「インターナショナル・スタイル」と呼ぶ社交ダンスです。

このページでは、このスタイルがどのようにして進化してきたのか、なぜ進化してきたのかを簡単にご紹介します。

 

初期の競技スタイル

ロンドンの小さなクラブでは、1920年代初頭にフォックストロットやタンゴのような単一のダンスの競技会が開催されるようになりました。 その後、1922年3月には、イギリスで初めていくつかのダンスを組み合わせた社交ダンスの競技会が開催されました。

 

初期のイギリスの社交ダンスの競技会のスタイルは、楽で自然で控えめなものでした。初期の出典を引用すると、「すべての動きは簡単で、わざとらしくなく、大げさな動きで簡単に台無しになってしまう。最高のダンサーは最も静かであり、 優れた能力を見せびらかすことはしない。」

 

これは、イギリスの社交ダンスのプロの初代チャンピオン、マックスウェル・スチュワートとパット・サイクスの「アクション写真」(ポーズをとっていない状態)です。 誇張された表現や堅苦しくないリラックスしたフレームに注目してください。

 

 

社交ダンスの焦点

さまざまな社交ダンス協会が競技会を開催しましたが、1920年代は、彼らの主な焦点は私的な社交ダンサーにとどまっていました。 1929年には、英国の社交ダンスのあるべき姿を決めるために、すべての社交ダンス協会が初めて大会議に集い、ステップと考え方の両方でコンセンサスを得ました。 フィリップ J. S.リチャードソンは大会議の議長を務めました。 彼は次のように報告しています。

 

議論は非常に広い範囲の主題をカバーしましたが、最も重要なことは、専門家ではなく一般のダンサーを対象とすることが、この業界の第一の目的であるという決定でした。このため、標準的なダンスと新しいダンスの基本的なステップは、できるだけシンプルに保つ必要があります。


大会議では、社交ダンス用の音楽とテンポを標準化することも決定しました。 その話はこの別のページにあります。

 

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もしあなたがダンスで幅広い音楽性に適応するのを楽しむのなら、そのトピックに関する1930年代の分化が魅力的でしょう。

1930年代のプロと競技選手への重点のシフト

 

リチャードソンは、次の10年間で 「指導的な地位に位置する教師たちは、あまりにも「凝り性」になる傾向があった。 針小棒大に訴え、彼らが教えたものの些細な逸脱すら大罪だとみなされた」。

社交ダンサーと競技ダンサーの間の溝は広がり始めました。

1930 年代の終わりまでに、社交ダンス協会は私的な社交ダンサーからプロや競技選手へと焦点を移していました。 例えば、一般決議の一つに、「ダンスホールの経営者は、教師協会の社交ダンス試験を受け、資格を持った教師でなければ、パートナーにレッスンをさせてはならない」というものがありました。
これは、単に競技会だけでなく、ロンドンのカジュアルなダンスホールのことを指していました。

社交ダンサーは、資格を持った教師でない限り、パートナーに新しいステップを見せることは許されていませんでした。 むしろ、それが社交ダンス協会の希望であったのです。 ダンサー自身はこの要望に従わず、ダンスホールの管理者もこの要望を強制しませんでした。

 

イングリッシュワルツにボディ・スウェイが取り入れられる


19 世紀のヨーロッパの社交ダンスは、ワルツで行われているように、垂直のボディのまま移動するか、ここに示されているポルカのように進行方向に傾いていました。

 

体を進行方向と反対に傾けて、腰を進行方向に先行させるカウンタースウェイは、アフリカの影響であると広く認識されており、3つの異なるアフリカ人集団を介して西洋の社交ダンスに入ってきました。

 

1) アフリカ系アメリカ人のカウンタースウェイは、最初は、世紀の変わり目にいくつかのラグタイム時代のダンスに登場しました。 1915年のサイレント映画『The Whirl of Life』では、アフリカ系アメリカ人が傑出したカウンタースウェイを多用して踊っています。
ディック・クラークが1950年代のアメリカのバンドスタンドショーでヒップムーブメントを禁止したことからも明らかなように、これは、半世紀以上にわたってアメリカで熱く議論された身体の動きのままでした。

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2) 次いで、アフリカ系ブラジル人のカウンタースウェイは、1905年にパリに紹介されたブラジルのマシーシェ(Maxixe)の 人目を引く特徴として、登場しました。 マシーシェ(こちらの説明を参照)は、基本的にはアフリカ化されたポルカでした。 ヨーロッパからの移民がブラジルにポルカを持ち込んだのですが、元奴隷の人たちが彼らのカウンタースウェイでもってポルカに手を加えていました。
こちらは1915年に制作された映画「The Whirl of Life」で踊っているバーノンとアイリーン・キャッスル。 カウンタースウェイは、回転するツー・ステップにはっきりと見られます。

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フランスの社交ダンサーたちは、すぐにマシーシェのカウンタースウェイをアメリカのワンステップの踊り方に取り入れ、現在でもカウンタースウェイを使って踊っています。 しかし、イギリスやアメリカの社交ダンサーたちは、ボディを垂直にしてワルツをはじめとする社交ダンスを踊り続けました。

 

3) 次に、ルンバの中でのアフロ・キューバンのカウンタースウェイが登場しましたが、これは1931年にアメリカで大流行しました。 イギリスでは、1934年までにイギリスの社交ダンスに取り入れようという協力的な努力がなされるまでは、ルンバは「ニューヨークで彼らは何を踊っているんだ」と遠まきに見られていました。

1934年8月号のダンシング・タイムズ誌には、ルンバに関する記事が6つ以上掲載されており、「ボディのサイドスウェイ」について言及していました。

別の記事では、「アングロサクソン人の頭の中では、”蛇のような腰”という概念はルンバと密接に結びついている。 そして、きわめて当然のことながら、ルンバはカマグエイ(キューバの都市名)のヤシの木立で、なまめかしく腰を回してダンスするということそのものです。」

その同じ月の後半、ルンバはついにボールルームダンスの公式理事会によって採用され、標準化されました。 公式版のカウンタースウェイはスムーズでした。「これらの動きやフィガーは腰を緩やかにスウェイして行われます。」

標準化されたルンバは、ダンシング・タイムズ誌の1934年10月号で説明されました。 ルンバのベーシックステップはボックス・ステップ・ワルツになぞらえられていました。

 

ベーシックステップは、ヴァルス(Valse)を教える際に時々使われる「スクエア」のフォーメーションの動きと非常に似ています。

学習者は、左足で前に進み、右足で横に進み、左足を右足に近づけて(1小節)、右足で後ろに進み、左足を左に、右足を左足に近づけて(1小節)、という四角いヴァルス(Valse)の動きを練習しなければなりません。
ルンバの音楽では1小節にカウントは4つですが、ヴァルス(Valse)では3つだけです。


同号の中でビクター・シルベスターは、「過去12ヶ月間、ワルツに変化はなかった」 と報告している。 つまり、1934年にはまだワルツはスウェイせずに垂直に踊られていたのです。


しかし、それはすぐに変わりました。ルンバは1935年にイギリスで非常に人気が高まりました。ルンバのステップはボックス・ステップ・ワルツに似ていたので、イギリスの社交ダンスのワルツにルンバのカウンター・スウェイが追加されるのは必然だったのかもしれません。 翌年の1936年版、イギリス社交ダンスのハンドブックの決定版であるビクター・シルベスターの『モダン・ボールルーム・ダンシング』には、このワルツの大幅な変更が特集されています。

 

「ボディ・スウェイ。2と3は左、5と6は右に向かってわずかに揺れる(スウェイする)こと」 (上記のルンバの「スクエア」を参照して、これらのカウントに対応するステップを関連付けてください)。

1930年代には、このボディスウェイはアフリカの影響として認識されていましたが、しかし、今日のイギリスの社交ダンサーはボディスウェイについて、アフリカ系アメリカ人のスウィング(ジャイブ)が「ラテン」ダンスに分類されているため、「ラテン」の影響と呼ぶことをより好んでいます。


(余談:伝説的なリンディホッパーのノーマ・ミラーは、イギリスではスウィグダンスが "ラテン "ダンスに分類されていることに常に不満を持っていました)。


骨盤でのコンタクトを採用

1930年代には、骨盤でのしっかりとしたボディコンタクトが、イギリスの競技スタイルのワルツにも登場しました。 英国の競技者たちの間では、新しい「スタッカート」スタイルのタンゴと古いスタイルのタンゴを巡って争いが起こり、新しいスタイルでは頭の素早い返し(スナップターン)と骨盤でのしっかりとしたボディコンタクトが好まれていました。(リチャードソンは「どの女性が最初に首に痛めるのか」と反対していた)
ほとぼりが冷めた頃、両者とも結局、タンゴの新しいイギリスのスタイルとして採用されることになりました。 そして、ワルツがルンバからボディスウェイを拝借したように、イギリスのワルツはタンゴからヒップコンタクトを取り入れたのです。

複雑さがイングリッシュワルツにもたらされた

ビクター・シルベスターは、1920年代に初めてチャンピオンになった時のワルツについて次のように語っています。 「私たちのワルツはとてもシンプルで、ナチュラルターンとリバースターン、フォワードチェンジ、バックワードチェンジだけだったことを覚えています。 バリエーションは一切ない」

しかし、1935年まで、ほとんどの競技会で審査委員長を務めたリチャードソンは、「カップルの中には、ワルツにあまりにも多くのバリエーションを導入しているように見える人もいました。別の時代のダンスのバリエーションを導入している場合が多く、ワルツの精神が失われてしまった」と不満を漏らしていました。

教師たちは、ワルツはライン・オブ・ダンス(LOD)で移動しなければならないと強調したが、複雑なバリエーションが競技会で勝ち続け、イングリッシュ・ワルツを一連の複雑なステップ、シンコペーション、方向転換の連続に変えていったのっです。

 

より広がりのあるスタイル


1920年代のイギリスの競技スタイルは、このページのトップに書いたように、自然で控えめなものが好まれていました。 その後、競技ダンサーたちは、1930年代のダンスに、より広く、より誇張された動きを導入するようになりました。 これは3段階で、3つの異なる理由で生じました。

最初の段階は、協会や審査員の好みからではありません。 それは観客の反応から来ています。 最初の例の一つは、競技会のボールルームのタンゴでした。 リチャードソンは当時の審査員の一人だったので、もう一度リチャードソンの言葉を引用すると、「競技ダンサーはは、これらの大げさな動き、特に(タンゴでの)方向を変えるときの突然の頭の回転(スナップターン)が、審査員の評価は得られなくとも、観客の賞賛を得ていることに気がついたのです。 これらの大げさな動きは、最初は審査員から非難されることもあったが、協会はこの変化に慣れていき、最終的には新しいスタイルとなっていきました。
クイックステップもまた、観客からの承認を得ようとする競技ダンサーの願望に大きく起因する奇抜さの段階を通過していました。これらの誇張は、最初は審査員から非難されることもありましたが、協会はこの変化に慣れ、最終的には新しいスタイルとなりました。

 

より広がりのあるスタイルの第二の理由


1934年1月のダンシング・タイムズ紙の中で、E.マレー・バムステッドは、標準化されたルーティンを演じるのに必要なスペースについて次のようにコメントしています。 "実際問題、過去10年間に教師たちが教えてきたダンスは、主に競技会を経て完成されたものであるため、スペースが必要であり、ホテルなどの狭いダンスフロアには全く適していないということだ」

リチャードソンも翌月号で同意しており、「ブラックプールのような広大なフロアでは、ダンサーが自らの働きに関して非常に広大でなければならないことを要求しているように私には思われるし、ひと目で分かる背の高いカップルを支持するように思われる。
繊細な動きと細心の注意を払った正確なテクニックを持つ、洗練され、小柄(背の低い)のペアは、2万平方フィートのフロアスペースでは見落とされがちである。」

 

第3段階では、予選ラウンドという形式が導入されました。審査員は、選手を数人のファイナリストに絞り込み、個々に評価します。


この競技形式の変更は、社交ダンスのスタイルを劇的に変えることになりました。ダンサーは群衆の中で目立つために、はるかに大きな動きをしなければなりませんでした。過激で、大げさな動きは、生き残りをかけた問題であり、そこでは、他者を凌駕するか、すぐに自分が淘汰され、退けられるかでした。

現在でも、社交ダンスと競技用社交ダンスの違いは、このような非常に広がりのあるスタイルにあります。 The Three Worlds of Ballroom Danceからこのページに来なかった場合は、そのページで違いについての詳細を読むことができます。

 

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広い視野で競技スタイルを見る

 

このページでは、イギリスの競技会をベースにした「インターナショナル・スタイル」の社交ダンスが、なぜ、どのようにして独自の外観に発展していったのかに関心を持つ人のために、その進化を解説しています。


しかし、このスタイルはごく一部のイギリス人にしか踊られていませんでした。 イギリス人のほとんどは、私的な社交ダンスをしていたのです。

 

この事実は、1920年代、30年代、40年代を通して『ダンシング・タイムズ』誌に報告され、私的な社交ダンスの大多数を「大衆」と呼んでいましたが、リチャードソンは「私は比較的少数の競技会ファンではない」と説明しています。


同じ年、1934年にチャンピオンのアレックス・ムーアは書いています。「ダンスを学ぶほとんどの人は、ダンスのエキスパートになることを望んでいません。したがって、テクニックの知識で生徒に過大な負担をかけるような間違いを犯す教師よりも、その方法のシンプルさで彼らを感動させることができる教師のところに行く可能性が高いです

 

 

イギリス人のダンサーの何%が競技スタイルの社交ダンスを学んだのでしょうか?

ビクター・シルベスターは1%と推定しています。

 

1936年、ダンシング・タイムズ紙は、イギリスで社交ダンスが人気になった折、ワルツがフロアで最も人気のあるダンスになっていたので、ワルツが最も良い指標だと考えられていたと報じています。

 

同年、シルベスターは、14年間の競技会で新しいイングリッシュスタイルの社交ダンスのワルツを標準化して完成させた後、「100人中99人が昔ながらのワルツとして知られるようになったステップで踊る」、つまり競技ではない社交ダンスのスタイルで踊っていると推定しています。

さらにザ・ダンシング・タイムズ紙は、イギリスの新聞が私的な社交ダンス・シーンを報じることが多く、競技ダンスのイベントをほとんど無視していることに不満を持っていました。

 

「英国ボールルームダンス選手権の重要性と可能性が、メトロポリスの日刊紙に十分に認識されていないことは、ダンシング・タイムズ紙にとって常に残念なことでした。 この国の主要な新聞ではごく短いパラグラフでしか書かれていないので、このイベントの重要性と可能性を、他の人たちが認識してくれることを期待できません」

 

しかし、競技ダンスのダンサーたちは、数の不足を熱意で補い、インターナショナル・スタイルの社交ダンスとダンススポーツは、今日まで何千人ものダンサーたちによって練習され続けています。

 

 

リチャード・パワーズアメリカを代表する社交ダンスの歴史学者であり、歴史的および現代の社交ダンスを40年間教えています。彼は世界中でワークショップを主催しており、現在はスタンフォード大学のダンス学部の常勤講師を務めています。19世紀と20世紀初頭の社交ダンスを中心に、過去5世紀の社交ダンスを研究してきました。彼は1981年に「ビンテージ・ダンス」という言葉を作りました。現代の社交ダンスに関しては、リチャードが強調するのは、柔軟で注意深いパートナー関係、創造性、個人的なスタイルの開発、そして様々なパートナーのダンススタイルに適応する能力です。30数回の来日経験もある。

http://richardpowers.com/

(原著者から許諾を取り、翻訳しています)

 

リチャード・パワーズによる記事の翻訳 

 

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